クリミア戦争で従軍看護婦として働いていたフロレンス・ナイチンゲールが「看護覚え書」を出版した1860年、世界初の看護婦養成所がロンドンの聖トーマス病院内に創設されました。
ここでの教育内容は「ナイチンゲール方式」と呼ばれ、後に日本の看護教育へも多大な影響を与えます。
日本において看護婦の資格制度が導入されたのは、大正4年(1915年)に看護婦の職務内容や資格要件などを記した「看護婦規則」が制定された時のことです。
その後、太平洋戦争が集結した昭和23年(1948年)に、アメリカGHQの指導下にあるなか制定された「保健婦助産婦看護婦法」によって、現代の医療に見合った職務内容や資格制度に改められました。
大正4年に看護婦規則が制定される以前にも、私的に看護教育を行う機関がありました。いずれもナイチンゲール看護学校の教育方針に影響を受けたものであり、医療施設の職員を確保するための事前教育、日本赤十字社による戦時・災害時の救護支援者養成教育の他、キリスト教の布教活動の一貫として看護教育が導入されていました。
看護規則制定により、看護婦の定義と資格要件が全国統一のものとなります。当時の規定では、看護婦の資格は女性のみに与えられるものであり、その職域も傷病者や産褥婦の手当てに限定されていました。
その後、敗戦国となった日本はアメリカの指導により新しい制度を発足させます。これが現在にまで続く「保健婦助産婦看護婦法」です。それまで別々に行われていた保健師、助産師、看護師の養成教育は一本化され、基礎医学から地域保健分野に渡る、より高度なカリキュラムの履修が義務づけられるようになりました。
看護師の職域は、医療保険制度改革の歴史と共にその範囲を拡大し、社会的な役割を確固たるものにしていきます。
例えば1992年の老人保健法の改正では新しく老人訪問看護制度が採用され、訪問看護ステーションでの需要を加速させました。1994年の健康保険法の改正では、要介護老人以外の障害者に対する訪問看護事業も認められました。
2000年に介護保険制度が施行されてからは、高齢者の「介護」を社会全体で支えるにあたり、看護師の存在は欠かせないものとなりました。
経験を積んだ看護師はケアマネージャーの資格を取得し、地域医療の新しい仕組みづくりに貢献する姿もさかんに見られるようになっています。
いわゆる団塊の世代が75歳を迎える2025年に向け、看護師の数は未だ不足している状態にあります。
医療、保健の現場では、必要数を確保するだけではなく看護師としての質を重要視する傾向が高まっていますので、単に大学や養成校を卒業して国家試験に合格するだけは不十分となってくるかもしれません。
大学院での研究活動や海外研修、ボランティア活動など様々な経験を積んで知見を広め、卒後もさらに研鑽を重ねていくことが必須となっていくでしょう。